西郷隆盛の師匠は島流しの役人!?

2009年09月11日

「敬天愛人」の遺訓で知られる西郷隆盛(1827-77)の書の師匠は、西郷が幕末の1年半、島流しされた鹿児島県沖永良部島の薩摩藩島役人坦晋(たんしん)(1800-61)だった‐。地元和泊町国頭の郷土史家、先田光演(みつのぶ)さん(66)が坦晋が残した日記などを解読し明らかにした。

 坦晋の日記は、「渡琉日記」や鹿児島に上った時の「上国日記」など3冊が現存する。先田さんは原文を解読し、5月に「坦晋の日記三部作‐琉球・薩摩を生きた島役人の記録」(A4判、66ページ)としてまとめた。

 坦晋は22歳のころ、鹿児島で医術を修め、唐通事(中国語の通訳)も兼ねた知識人。中国交易船の調査のため琉球に渡っており、当時漢詩と書道の古典といわれた書物を持ち帰っている。

 一方、西郷(島では大島吉之助)は坦晋が没した翌年の1862(文久2)年に沖永良部島へ遠島される。2人は出会ってないが、先田さんは西郷と、坦晋の孫で明治になって島の村長になる操坦勁(みさおたんけい)との関係に注目する。

 西郷は広さ4畳半の牢屋(ろうや)の中で読書に励み、漢詩と書道に打ち込んだとされ、牢の外では坦勁ら島の若者たちが西郷の教えを受けた。有名な「敬天愛人」の言葉は、沖永良部島流罪中に生まれたと伝わる。

 先田さんは「三部作」の中で、西郷が坦勁にあてた漢書の借用書2通を紹介しながら、「西郷が借りたのは、坦晋が琉球で買い求めた漢書の蔵書だった」と記す。

 また、操家に残る坦晋の書についても触れ、「肉太で力強い坦晋の書体は、西郷の書体と似ている。西郷は坦晋の書や蔵書を手本に書を学んだのではないか」と考察している。

=西日本新聞朝刊=
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鹿児島県和泊町にある牢で座禅を組む西郷像を見ると、上野公園にあるがっちりとした銅像とは全然イメージが違います。その時の年齢の影響もあるからでしょう。人気があったNHKドラマ「篤姫」を見ても、教科書で教わった西郷隆盛とはまた違った部分が見られ、知れば知るほど興味深い人物ですね。